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2009/06/03

中学時代の自転車仲間のこと

丹沢からの帰りに久々に中学時代の友人の家に行きました。 自転車のレーパンを履いたままでしたが、もういいだろう、とそのまま訪問。(「もういいだろう」の理由は後述) 中学、高校と自転車仲間。突然(私は電話してから訪問するのがあまり好きではありません)なのと、レーパンを履いていたのでビックリはしていましたが、喜んで、中学や高校でのツーリング話などに花が咲きました。

といっても、ツーリングより、実現までの過程が毎回大変だったのです。私や他のメンバーの親は心配はしつつもツーリングには強く反対はしなかった(たぶん・・・)のですが、大きな機械工場の近くでラーメン屋を経営している、友人の母親が毎回毎回、心配して強行に反対するので、彼はいつも家出同様に出てきていました。友人の母親は家業がいそがしくて普段は放任しているのですが、そういうときはべらんめえ口調で強行に反対します。私の両親は普段は細かいですが、ツーリングを反対することはありませんでした。

友人の母親は東京の下町から流れてきた人で遠慮会釈なく店から飛び出してきて私たちを攻め立ててきます。まあ、中学生が箱根や伊豆や奥多摩にチャリで行こうというのですから、心配は心配だったと思います。 友人は「うるせえ。このクソババア。死んじまえ」と悪態をついて走り出し、私たちは母親に会釈してそろそろと出かける・・・・のが常態でした。

おまけにその実態は親には見せられません・・・・箱根に行ったときは自動車専用道路の西湘バイパスに入り込んでクラクションの嵐にさらされたり、奥多摩(日帰りで200KM超)に行った帰りには八王子あたりではぐれてバラバラに帰ってきて、友人の母親のラーメン店に私が先に戻ってきたことで大目玉を喰らったり・・・実態は私が遅れて、友人たちは途中でラーメンを食べていたのを私が気づかず追い越しただけなのです。私は冤罪で他人の親に怒鳴られました。ラーメンはタダで食わせてくれるので反論もできません。友人は自分の家でラーメンを食べるのに飽き飽きしていていつも別のところでラーメン(ラーメン店が多かった。コンビニや補給食などありませんし)を食べてから帰るのです。

中学(2年生くらいの冬)のとき、テント宿泊の練習と称して、私の家の近くの公園でテントを張って一晩過ごしたのですが、近くに住んでいるうちの親は見にこなかったのですが(私が見に来るなと言ったからです。当時から干渉を嫌う性質でした)、友人の母親はもちろんのこと、Y高を卒業してこれからすし屋修行に行こうとしていたお兄さんや、そのフィアンセが一晩中、入れ替わり立ち代り見に来て、布団や差し入れのお菓子やおかずなどをせっせと持ってきてしまい、ぜんぜん実習にならなかった・・・・なんてこともありました。 おまけにふとんだのお菓子だの片付けるのが大変で閉口したものです・・・

高校に入ると、さすがに反対はされなくなり、日光(1泊)や紀伊半島(1週間くらい)などツーリングに出かけました。日光は戦場ヶ原まで行ったので往復400kmあって、往路は日光あたりの適当なバンガローに勝手に泊まり、帰りは越谷のあたりの閉店後のガソリンスタンドに仮眠したり、と今でいうブルペのような走り方でした。紀伊半島は冬でしたのでYHに泊まりました。別レポート参照

友人は高校では自転車競技部に入りましたが、私はワンダーフォ-ゲル部に所属。基本的にツーリング志向の私と異なり、彼の競技志向がはっきりしてきました(自転車のタイプは逆でしたが!)。もう彼のペースについていけなくなったし、一緒にツーリングに行ったのは高校1年までです。 私自身、登山でお金がかかったりしたこともあってツーリングは紀伊半島まででした(別の友人の自転車を借りて北海道に出かけたのは大学2年のときです)

その後、私は大学へ、彼は山下公園前のホテルやガソリンスタンドを経て競輪学校を受験。入学試験を受けるときは1ヶ月ほど、私の家の近くのM高校のグラウンドで1500m走の練習につきあいました。彼の努力のかいあって、みごと競輪の選手になり、S級まで昇進、結婚して2人の子供もでき順風満帆でした。が、そんなとき、練習中の交通事故で脊髄損傷・・・・車椅子生活になり、競輪選手をリタイアします。

あれから15年。リハビリのため何でもやっていました。
95年には私と一緒に中国 大連まで気功治療にも行きました。(張志祥先生--信州の分杭峠をパワースポットと認定?した人です)

難病が治ると評判の御茶ノ水の鍼灸院に一緒に行ったときは逆に私が結石の発作を起こしてそのまま近くの東京医科歯科大学病院に入院した・・なんてこともありました。

その後彼は治癒に関してはあきらめたようですが、事故後に始めた絵描きが嵩じて、一般受験で多摩美術大学に入りました。学校祭での個展も見に行きました。その絵は、世界選手権のサンチャゴ・ボテロ(コロンビアの自転車ロードレースの選手)の絵でした。事故のあとずっと自転車の話題はしませんでしたが、経験から書きやすという要素もあったのかもしれませんが、自転車を描いていたのでした。

いまは、(競輪)年金だけでは子供の学費に足りないとのことで、横浜の損保で契約社員をしています。最初は自動車通勤が認められず市営地下鉄での通勤は大変だったと思いますが、現在は車で通えるようになったということです。

40歳過ぎてからサラリーマンになるのは本当に大変なことだと思いますが、いつでもがんばる彼の姿勢に感銘を受けました。

(原文は2006年にmixiで書きました)

2014年追記:複数の友人より誤りを指摘されたので訂正します(^^;

×機械工場 ○化学工場

×友人たちは途中でラーメンを食べていた

○友人たちは途中でラーメンを沸かして食べた

×いつも別のところでラーメン  ○いつも別のところでラーメン等 ラーメンとは限らない

私の記憶はかなりいい加減なのですが、友人は思い出のディテールをよく覚えていました。

2014年さらに追記:友人のお母さんは2013年に亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りします。怒鳴られた思い出を懐かしみつつ。

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ツーリングの思い出(昔話)」カテゴリの記事

コメント

なかなか楽しく読ませて頂きました。
昔からとしさんはツーリング派だったのですね〜

一気に読ませていただきました、
ありがとう御座いました、

ayakoさん

うーん、どうなんでしょう?<ツーリング派
少年時のサイクリングはほぼ国道サイクリングばかりでしたし・・・半端なところで中断したという思いはあります。

ブログで拝見した日帰り長野オフ参加したいです^^

suiさん、はじめまして、でしょうか?
サイクリングされるんですね?
戯れ文を読んでいただいてありがとうございます。
また訪問いただけるとうれしいです。

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